どうぶつブログ

(ヒト ∈ 動物)について、いろんなこと書いてます。

「津波」後の時代、自然と(して)の連続:『どうぶつのことば ー根源的暴力をこえて』鴻池朋子

※とても長い(7000字)ので、お時間あるときにでもどうぞ。書評というより、ここ10年弱の「考えごと」の整理になっちゃいました。気の短い方はばーっとスクロールしていただいて結論だけどうぞ。

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ずっと積読(つんどく)になってたこちらの本を読みました。

表紙が素敵!(なんかいつも派手なものばっかりかわいいと言ってますが、私自身は派手ではないです。。)

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鴻池朋子さんという、現代美術家の方のご著書です。2016年9月発行。

 

著者の正直な言葉が私には心地よかったです。

3.11から半年後に受けたインタビューで、彼女はこう語ったそうな。

「わたしは、やっぱり最初に見たあの津波。あの津波の映像を見たときに、言い方が難しいんだけど、『自分が長い間見たかったのはこれだ』という、とても強い欲望のようなものが覚醒してしまったような気がします。今、みんな応援とか心のケアとかボランティアとか言っているけれど、それとは真逆の、根源的な力そのもの、それが生きる力につながって作品が生まれると思います。」(p.284)

あの時点でそれに気づいておられたのは、すごい。と思います。 

 

この本は、あの日以降の彼女のアーティストとしての模索の軌跡を著したものです。

で、読み終わって気づいたのは、

「おう、私も、とても似たようなテーマと出会いながら、同時代を生きてきたなあ」

ということなのでした。

 

2011年、著者が東京で個展を開いていたときに東日本大震災が起こり、二週間後の個展の再開時にギャラリーに行ったら、ご自身の作品にまったく興味が持てなくなってしまっていたそう。それは「すかっとするような、もう元には戻れないというような高揚と喪失」(p.285)。

その後いやおうなく違和感が襲ってきて、そこから新たなアートを生み出すための葛藤が始まったそうな。

「震災後、クリアに浮かびあがってきたこと」があって、それが「動物のこと」(p.293)。

でも、創造という面において自分の中を探っても空っぽで、いったいどうしたらよいのかわからない。だから、貪欲にいろいろな方に会い、作品を見てもらい、お話をされたそう。

動物絵本の研究者や考古学者・おとぎ話の専門家などとの対談、著者の地元秋田で女性たちの語りを元にテーブルランナーを縫い上げていく話、同じく秋田で狩猟に同行し、仕留めた鹿の肉を食べる話などが登場します。

 

そんな中で著者が発見していった新しい創作への手がかりがたとえば、

「動物/人間」「自然/人間」といった境界線を乗り越えていくこと、

恐ろしいものを見たい、そのことによって元には戻れないような変容を遂げたい、という人間の欲求を正面から捉えること、

歴史上のあらゆる事物を女性というキーワード(のみ)で括り直していくこと

など。(もっといっぱいありますが。)

めちゃくちゃざっくりですが、こうして書き出してみると、とても現代的な問題意識って感じがしませんか。

 

もうちょっと細かく見ていきますと、たとえば作品の中で動物をモチーフにする際、それまでは「卑怯」にも、寓意を持たせてしまっていたそうです。

でも本当は、「私が描こうとしているのは、動物を用いた擬人法や比喩表現でもなく、また、動物のことをよく理解するためのものでも、ましてや人間というものを問い直すための絵でもない、ただそこと私たちとはずっと前から連続している、ということをそのまま差しだそうとするだけなのである。」(p.296)

ああ、そう言ってくださってよかった。

 

と言うのも、私はタイトルに「動物と人」などと入っている本を見たら片っ端から買ってしまう癖を持っているのですが、さまざまなジャンルにまたがるそうした本たちを読んでいると溜まってくる不満というのがあって、それは

「結局、人間の話に終わるんだよね。」

ということなのです。人類学だろうと、文学だろうと、哲学だろうと…。

「動物を見つめるということは結局、翻って人間を見つめるということなのである」などと言われると、「…」となってしまう。

動物を鏡にして人間を見つめ直す、っていう自己満足が嫌なのですね。なんとナルシシスティックなことか、と。

(いえ、自然とやってしまう、っていうのはわかるんですが(私もやってるし)、それはただそれだけのことであってね、とくに深遠さとかはないと思うのです(あくまで私と、私が読んできた本たちに関してですが)。)

そこから一歩進んで、「二項対立を乗り越えよう」っていうタイプの論もなくはないんですが、具体性や(私にとっての)説得力に欠けていたりとか。

それこそ(既存の)言葉で表現することの限界ってのがあるのかもしれません。

 

 

3.11をきっかけにものの見方が変わった、という方は多いですね。

私自身は、京都在住で揺れを感じなかったためか(揺れたという話も聞くんだけど全然記憶にない…)、当時すでにほとんどテレビを見ていなかったためか、あんまり実感がありませんでした(申し訳ない)。当然、生活にも人生観にも変化はなく。

 

ただ、先にも述べましたが、時代って不思議だなと思うのは、私は私で同時期に、似たようなことを感じたり考えたりしてきたということです。

私にとっての「津波」は2009年頃にやってきて、2011年初頭には動物の研究の世界に片足を踏み入れていました。

「津波」の中身は私の場合、直接的に動物のことでした。自分の奥深く見えないところに埋めてあったトラウマや激しい情動が全て表に噴き出して、処理するのに本当に困った。

というか、全く処理しきれずに、「それでもやっぱり、動物にかかわることをしよう」と思って、今の道に進んだのですね。

その後、著者や対談相手の皆さんが語られたような、「動物/人間」の境界線、殺すことと食べること、暴力、タブー、女性的なものの復権などについて、私も考えることになりました。

 

とくに私は当初、水族館でイルカの研究をしていたので、日本人の動物観とか日本における動物の取り扱いという面でさまざまなことを感じる機会がありました。

というのも、2009年に、『ザ・コーヴ』("The Cove" )という映画が話題になったことを覚えておいででしょうか。私、なんか怖くて、見れてないんですけど。。(追記:2018年3月、見ました!)

血みどろのショッキングな映像を多用して、太地町のイルカ追い込み漁を猛烈に批判するドキュメンタリー映画(だそう)です。

これに対して日本では一部で猛反発が起こって、当然、イルカ漁やイルカ飼育に携わる人たちもいい気持ちがしていませんでした。(日本で飼育されてきたイルカたちは基本的に、追い込み漁で捕られたものです。食用とは別枠で、もちろん生かしておく。その中から各水族館が、傷の少ない個体などを選んで買い付けてたんですね。)

 

本当にたまたまそういうタイミングで、私はイルカ研究の世界を垣間見たのですが、日本のイルカ研究はそもそも、水産業としての捕鯨とともにあったので、今もそちらの業界とのつながりが強いんですね。

「水産資源」であるからには、相手を人間による経済的利用の対象と捉えていることになります。

こうした方面からの、欧米からの批判に対する反論のひとつが、「牛や豚は殺しているくせに、イルカを殺すなというのは欺瞞だ」というものです。

イルカ漁に反対する人には、工場畜産にも反対する人が多いのではないかと想像しますが、そうでない人もたしかに、いると思います。(ただ、追い込み漁と畜産では殺し方が異なるでしょう。)

もうひとつが、「『イルカは頭がよいから』と言うが、頭がよいことは関係ないだろう」というものです。

たしかに欧米人がイルカ・クジラ漁を批判する際に、「頭がよい(認知能力が高い)」ことが理由にされることがあります。

そうした人は、イルカ・クジラを「資源」ではなく、(ある重要な一側面において)「人間に近い存在」と捉えているわけですね。

そして、前提として、「自らに近い存在であればあるほど、傷つけるべきでない」と捉えていることになります。(これ自体は、生物学的に言ってもごく自然な感情であって、我々ももちろんこのように感じます。)

 

これは、狩ること、殺して食べることにまつわる問題でもあります。

本には現実の狩猟の話も出てきますが、もっと象徴的な話として、

「あらゆる生物が『食べるもの』であり『食べられる』ものである以上、どんな人間も、本当は他の誰かによって食べられてしまう可能性がありますよね。でも、どうゆうわけか、子どもは絵本や物語の中でこの可能性を繰り返し体験しようとするんですよ。」(p.354, 芸術人類学者の石倉敏明さんの言葉に著者が手を加えたもの)

という一文があります。

石倉さんとの対談には、カニバリズムの話題が出てきます。「共食い」「同種食い」のことですね。

カニバリズム、「人食い」へのタブー感というのは、ものすごいものがあると思います。

同時に、怖いもの見たさを刺激する、抗いがたい魅力を放っているのがカニバリズムだとも思います。

それはたぶん、子どもが物語の中で「食べられる」可能性を繰り返し体験しようとするのと同じ。

 

カニバリズムは実は、自然界ではそこまで珍しいものではありません。

にもかかわらず、様々なジャンルの学者や書き手が、カニバリズムについて考える、ってところにたどり着くようです。

「(レヴィ=ストロースに従えば)食べ物となった生命体に人間と同じ生命や、感情や、心のようなものを認めた時点で既に、カニバリズムという問題に絡めとられてしまう」。「ある意味でわれわれは皆、カニバル(食人的)な存在なんじゃないか、というわけです。」(p.87, 石倉さん)

 

「たどり着くようです」って他人事のように言いましたが、私自身も、これまた偶然に、そこにたどり着いてしまった者です。

今度は野生チンパンジーの話ですが、チンパンジーがね、チンパンジーを食べていたんですね。アルファオスが、アカンボウの死体を貪っていた。

まあしょっちゅうあることではないですが、そうは言ってもチンパンジーが子殺しをしたり、その後死体を食べてしまったりすることがあるってのは、よく知られていることです。

 

でも、私がこのとき最も印象に残ったのは、カニバリズムそのものではありませんでした。

むしろ、カニバリズムに対する、人間側の反応。

チンパンジーって実は肉が大好きで、サルを狩ることがあるんですが、どうも人間の側では

「子殺し&カニバリズム=残酷非道なこと」

「狩猟=ワクワクする楽しいこと」

という感想が一般的な気がして…。

 

上述の、「ある意味で我々は皆カニバル」という考えに従うならば、これは矛盾した反応なのですよね。

もちろん、先に述べたように、自分に近い存在ほど傷つけるべきでないという気持ちになるのは自然なので、チンパンジーがチンパンジーを殺して食べることと、チンパンジーが他の動物を殺して食べることとでは、重みが違うと感じられても不思議ではないのですが。

でも、人間ほど高い想像力をもった生き物において、そんなにぱっきりと反応が分かれるのは、やっぱり矛盾なんじゃないか、と思う。

「どっちも残酷」と感じるか、「どっちもワクワクする」と感じるか、「どっちも残酷かつワクワクする」と感じるか、そのどれかが矛盾のない反応じゃなかろうか。(正しいとか間違ってるとかではないですよ。)

 

狩猟という行為を通しても本当にいろんなことが考えられると思うのですが、機会があればいずれまた。

 

そんなふうに、研究そのものとは違うところで、著者と似たようなことを感じ、考えてきたのが、2009年以降、あるいは2011年以降の私だったような気がします。

(正確に言うと、たぶん結論のところではいろいろ違うんだけど、問題意識には通底しているものがある、と思う。)

(女性の話とか、拾えてないですけど…長くなってしまったのでやめとく。)

動物と人間における線引きの問題、私たちが人間以外の動物をどう見るのか、社会として矛盾をどう乗り越えていのくかという問題は、これからたくさんの人たちとともに考えていくことになると思います。

 

冒頭で紹介した文を再掲するならば、

「あの津波の映像を見たときに、言い方が難しいんだけど、『自分が長い間見たかったのはこれだ』という、とても強い欲望のようなものが覚醒してしまったような気がします。」

それは著者の言う「根源的暴力」への、畏れと憧れのようなものかな、と思うのですが(「根源的暴力」を行うのは、ときに自然であり、ときに人間であるようです)。

 

これって、基本的にきれいごとを言うのが好きな私も、普段自然や動物のことをあまり考えない人も、等しく持っている感覚のような気がします。

私たちは見たいし、感じたいんですよね、たぶん。

強烈な破壊とか、理不尽なまでの暴力とかを。

認めたくないですね、あんまりね。っていうか、そんなわけないって思いますよね。

 

私は、痛いの、辛いの、本当に大っ嫌いです。

「津波」に襲われたとき、私はそれまで想像もできなかったほど苦しかったです。すでに十分苦しいと思いながら生きてたのにね。

でも、あの頃の体験がその後の私を形作ったのは間違いないし、私を元へ戻れなくさせるほどに変えてしまう何かを待ち望んでいたこともやはり、間違いないと思うのです(だからってもう一度体験したいとは思わないですが。。)

それを著者ならば、「変容」と呼ぶのですね。

私だったら…「変態」(「ヘンタイ」じゃないよ)でしょうか。

(遺伝的情報みたいなものとして)ある程度、初めから何かが内在していた、と考えるほうがしっくりくるので。

 

本のサブタイトルは「根源的暴力をこえてです。

これは、世の中が非暴力的になる、とかいうことではない。

 

異類婚姻譚(人間と動物とが婚姻する話。命を差し出さねばならないこともある)の話題で、

「異類婚姻譚というのは、とても恐ろしい物語です。あるいはとても美しい物語と言ってもよいです。(中略)異類婚姻譚とは高次元への死の跳躍が起こる物語、次元の異なる世界を貫いていく贈与のリレーの物語と考えてみるとよいのではないかと考えます。」(p151, 教育人間学者の矢野智司さん)

自然と対話するなんていう、まだ人間中心目線からの生易しいことをやっているようでは埒のあかないところに来ているわけです。(中略)いかにして人間中心の目線をずらすことができるのか、もしくは人間以外のものの目線というものを獲得できるかどうか、にかかっている気がしたんですね。」(p.152, 著者)

「…人間以外のものと溶解するわけですから、一度人間ではなくなるということです。人間を捨てるということです。ですからそれは覚悟がないとできないことだなと思ったんです。」(同上)

 

本の終わりに出てくる「根源的暴力」という名の展示では、皮革が素材として選ばれています。

「皮絵の手前には当然、畜産、屠殺がありその工程も自ずと知るようになる。そしてしばらくして、なぜ(中略)皮を選んだのか、縫ったのか、ツギハギなのか、吊るしたのかがするするとつながり、同時に『根源的暴力』という不遜なタイトルも素直に意味を失っていった。」(p.364)

既に私たちは自然と連続しているのだという実感を、どうしても感じずにはおれないような切実な時代の瀬戸際に立たされているのだと思ったほうがよい」。(同上)

  

そう、私たちは一度たりとも、自然と連続していなかったことなどないのですよね。

というか、私が野生動物たちの生活を覗き見てきて感じたのは、

彼らも、私たちも、同じように、いつだって自然そのものであり、動物そのものである、ということです。

それがあまりにも見えづらくなっている、というだけ。

 

境界線はそもそも、どこにだって引けるのです。

私とあなたの間にも、ヒトとヒト以外の動物の間にも、脊椎動物と無脊椎動物の間にも、生命と非生命の間にも。

そしてその無限の境界線はいずれもが、常に揺らいでいるのです。これは、比喩ではない。

その境界線のひとつを、私たちは必死で強化してきました。

その線を今、自らを投げ出して、溶かしていく覚悟はあるか。

 

最近、なんとなくですが、こうしたこと―私たちは自然と連続しているという実感や、境界線を溶かしていくといったこと―について、さらに時代が動いていっている気がします。

まあ、単に私の中と、私が身を置く小さな世界の中で、新しい動きが出てきてる気がする、ってことなんですが。 

でも、この本を読み、自分の過去10年ほどを振り返って、やっぱり時代的に共鳴することってあるのかも、と思ったのでね。

今また、大きなうねりが来つつあるのかもしれない。

そしてそれは、2009年から2011年にかけての、津波に根こそぎ持って行かれるような破壊的な何かとは違うんじゃないか。

著者においてそうだったように、あの頃以降、醸成されてきたものがあると思うのです、多くの人の中でね。私を含め。

それが今後少しずつ、世界の中で目に見える形で意味をもってくるんじゃないか、と、ちょっとばかりワクワクしているのです。

 

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鴻池朋子『どうぶつのことば -根源的暴力をこえて』(羽鳥書店、2016年) 

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